今日の日記の内容はちょっと重めです。
エイプリルフールの日に見た夢。
亡くなった母方の祖父と父方の祖母が登場していた。
人の死に言いも悪いもないのだが、ぱんだの親族健康状態良好で寿命をまっとうして亡くなった人は一人も居ない。
ここで祖父と祖母の昔ばなしをしよう。
生死彷徨い目だけしか動けず体中に管を指されて延命処置をされていた祖父と70歳半ばで認知症となり息子を忘れ、祖母自身が懸命に生きていた戦後の時代まで記憶が遡り息子を戦争で亡くした旦那と呼ぶ祖母。
祖母はその後20年余り施設で過ごし肺炎を患いその後息を引き取った。
脳死状態になった人を安楽死させるべきかどうかの議論をニュースで見たことがあるが、すでに意識朦朧、感情も乏しくなってしまっている状態から健康な状態に戻るなんて奇跡が起きるはずはなく、かといって本人も辛いだろうから、と安楽死を決定する権利もない。辛いと思うのは、見ている側であって本人が辛いかどうかなんて聞いてみないと分からない事だからだ。
母の虫の知らせで今会いに行かないと二度と会えない気がする!という声に従い仕事を休み家族総出で会いに行った1か月後に祖父は亡くなった。
母が「お父さん、娘のぱんだがね、会いに来ましたよ」
そういいながら手を握ると、閉じていた祖父の目が開き「あ」一声出すと、ずっと看病していた叔母が「信じられない。意識が戻った!?」小声で呟き泣いていた光景は忘れられない。祖父の目にも涙が伝う。
「うんうん、嬉しいね。私の声聞こえてるの?聞こえてたら、目を一回閉じてみて」
母が優しく祖父へ話しかけると、目を一回閉じた祖父。
母が祖父へ行うその動作は、看護師と入院している患者の対応のそれだった。
その後祖父が息を引き取り、火葬場へつれて行くまで昔ながらの葬式の風習にのっとりぱんだも親戚一同と共に参加した記憶は一生忘れられない物となっている。
そんな印象に残っている祖父と認知症で記憶を忘れながらもずっとぱんだの事だけは忘れずにいた祖母が夢に二人同時に出てきたら、そりゃ動揺するよね。
老人・老婆といった類が夢に出てきた場合は、霊感的要素が強くメッセージ性も高い。しかも二人とも故人だ。
夢の中で言われた言葉は何か言われた気がするが、何も覚えていない。
だが、目が覚めた瞬間「途方もない厳しい状況から目をそらすな。一体何をやっているんだ?」現実をもっと見ろと怒られた気がして、涙が溢れて止まらなかった。
そう、ぱんだは実際、現実から逃げている。
両親の事や相方と暮らしている状況から。
母は軽く認知症になっているし、両親二人とも70歳と高齢だ。
借金返済に明け暮れ老後の蓄えが無い自営業だった父と68歳まで看護師として勤務していた母の生活費は、母の厚生年金のみで賄っている。
本当ならぱんだが正社員でバリバリ働き少しばかりの仕送りが出来たら良いのだろうが、現実は病弱を盾に年金も自分の給料で払えていない無職である。
鈍感になりたい。相手のちょっとした仕草や言葉のイントネーション、行動や表情から読み取れてしまう過敏な感情があるがゆえに、びくついてしまう。
気遣いが出来ることは能力でも何でもない。生きていく上で必要不可欠な術だっただけ。
明るくポジティブで能天気で後先考えずになんとなる精神で行動に移せる馬鹿になりたいと心の底から願ったが、神様は許してくれなさそうだ。
今朝は会社へ行きたくないけどやりたいことがある、と行動することに迷いが生じている相方に寄り添い、なんとか会社へ行く気になり出勤していった。
若いころのぱんだもそうだったが、現地へ行くまでの労力が面倒で面倒で休みたくなるんだが、行ったら行ったで何事もなく過ごせる。行く、という行動だけが面倒なだけ。
片道徒歩1分だろうが1時間だろうが関係ない。現地には友達や話せる相手が居ない訳でもない。
今にして思えば、この面倒くさいは会社まで行く道中に楽しい事が何もないからだろう。
風景を見たり街を見たりする心の余裕、楽しさを見出させてない状態だから、行動がつまらないから行きたくないんだと分析する。
行くまでの間に音楽を聴いたり読み終わっていない本を読んだり何か楽しさを加えることが出来たら、きっと行く行動を面倒に感じないはず。
現にいまぱんだは週に1度、通院のため片道徒歩20分の行くという行動を面倒には感じていない。道中の花を見たりスーパーへ立ち寄ったりすることが「楽しい」からだ。
もしぱんだと同じような状態の人がいたら、片道の中に「楽しい」と感じられるようなことを体感させてみて下さい。塵も積もれば山となる精神で。
取り留めない終わり方になってしまったが。
魔女宅のアレ風に。
「落ち込むこともあるけれど、わたし、いまが好きです」