ぱんだの徒然日記

無二ぱんだが料理やスイーツ、気になる事を追求していくブログ

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無二ぱんだのプロフィール

このブログを立ち上げた経緯は?

無二ぱんだってどうして無二ぱんだっていうの?
無二ぱんだってどんな人生を送ってきたのー?
疑問に感じる方がいるとかと思いますので、自己紹介をします。

こんな人物が書いているんだとご理解共感して頂けたら子喜びします。

 

目次を付けましたので、気になるタイトルをクリックすると一瞬で飛びます。

 

このブログを立ち上げた目的 

両親が70過ぎになり母に軽度の認知症が発覚。

父は家事が一切出来ない人なので、二人暮らしでやっていけるのか心配しています。

ぱんだはメンタルが改善出来たといっても、体力なく病弱なため

ブログで少しでも収益化したい、介護資金を貯めたいと思い立ち上げました。

(借金も少しある)


在宅でも仕事は可能。考え方次第でどうにでもなる!

目標と夢の実現に向けて、日々切磋琢磨しつつ、培ってきた経験から役立てる情報を提供できるように精査頑張っています!

 

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無二ぱんだの名前の由来

ぱんだは交際していた元元々彼氏のおうちに住み込んでいた頃、

ベッドから這い上がる際に立ち上がるのが面倒でごろん、と転がってから起き上がっていたことから「ぱんだみたい」といわれるようになっていました。

 

以前gooでブログを書いていた時の名前も「ぱんだ」で、小さな池に下半身が漬かってる画像をプロフィールに載せていました。見た事ある人いるかな。

 

無二は、唯一無二の無二から取っています。

 

はてなブログでは、こういうぱんだは一人だけだ、という考えで「無二ぱんだ」と名付けました。

 

さて……。

*これから話す内容にはショッキングな内容も含まれます。心がしんどい時は読まないで下さい。また、現在のぱんだが過去を思い出して解説する文面もちょいちょい入れています。現在進行形の方の何か参考になれば幸いです。

無二ぱんだの人生

母子家庭で育ってきた父と父子家庭で育ってきた母の元に生まれた長女。

昭和真っ只中で、近所の人達は市役所勤めで裕福。

父の祖母(姑)が父に超過保護だったため、父と祖母の中は険悪。顔を合わせると父が常に怒鳴り祖母(姑)を邪険に扱う。母は無視。

なぜ無視かといえば、父を想うあまり母に八つ当たりをしていたから。

 

母は田舎から都会に出てきて稼いでる人だったが、父と結婚するや否や祖母(姑)と同居することが決定していた。

同居にあたり、母の味方は誰も居なかったんですね。

 

だから長女であるぱんだを周囲が見返すぐらい立派に育ててやる!

教育熱心な母が爆誕しました。

 

祖母は孫には弱い。

食べたいもの、欲しいものはなんでも買い与えるが、躾は一切無かった。

そこが母の逆鱗に触れ、母、祖母、父の三角関係でバトルが勃発。

 

ぱんだはいつもその喧嘩の中にいました。

 

その後、母は引っ越すことを決意、ぱんだを保育園、幼稚園に出し働き始め、弟ができ、新たなマンションに越すことができたのは、ぱんだが7歳、弟3歳の時でした。

 

このときのぱんだは物凄く冷めた子供で、一人で図鑑やドラえもんの漫画を読んでいましたね。サンタさんも信じていませんし母と祖母の関係、父と祖母の関係も認識していました。

なぜなら、母から夕飯時に愚痴を聞かされていたから。

母にとっての話し相手が、ぱんだだけだったからに他なりません。

 

祖母(姑)がなんでも買ってあげるよ、と買ってくれていたオモチャ、御駄賃のお金は、ぱんだの知らない所で、母へお金を要求していた、ということもこの愚痴で知りました。

それ以来、祖母(姑)からお駄賃あげるよ、おもちゃ買ってあげるよという言葉に乗らなくなりました。

受け取ってしまったら、後で母に祖母(姑)からぱんだに渡した分のお金を要求し、母が困ることになるから。

 

10歳くらいの頃から一緒に遊んでいた子の家庭がヤ〇〇系だったため、友達も口が悪くぱんだも態度や口調が悪くなり母に当っていました。

 

多分これが反抗期だったのだと思います。

 

弟ともしょっちゅう喧嘩をしていましたが、母がそれにブチ切れると喧嘩両成敗のはずが、姉であるぱんだが弟の煽りに乗るな、と頭や頬っぺたをビンタされていました。

時に母のフラストレーションが最高値に達した際は、ビンタされても泣くのを我慢するぱんだを泣くまでずっと叩くという行為に及んだ事もあります。

 

今にして思えば、父は仕事一筋で週1のお休みで家におらず、帰宅時間も21時と遅い。

家庭のことは一切母に任せっきりだったんですね、子供二人のワンオペ。

母のストレスを発散する場所が一切なかったので、そりゃまぁそうなるかな、と。

夜遅くに目が覚めると、母が声を殺して泣いているのを見たこともあります。

 

だからなのか、母自身のストレス発散もかねて、ぱんだと弟をバスや電車を乗り継いで外出し映画を見たり喫茶店でメロンソーダーフロートを食べたりしていました。

 

弟は4歳児にして頑固で一度言い出したことは絶対に曲げない性格で融通が利かなく、母を困らせていました。

 

「うんにょは家のトイレでしたい」←これ外出先でうんにょしたくなると、一人で帰る行動をしだすんですよ。切符もお金も持っていなくても。

電車を降りた駅のホームで言い出した時は、反対車線にきた電車に一人飛び乗り、母がパニックになっていた記憶があります。

 

母の教育熱心はずっと継続して行われ、小学校に入る前に勉強で遅れを取らないようにと通っていた幼稚園で週に2回、読み書きの勉強会、字が上手くなるように書道を週2回、中学は私立の進学校へいけば高校も安泰だという理由で小学校の時は、週3回の塾へ通わされていました。

 

拒否権はありませんでした。ぱんだもまた、家で味方はいませんでしたので。

弟はいずれ相手を貰う立場になるから、という理由で教育熱心の熱は向かなかったです。

 

多分……父と祖母(姑)の過保護を経験しているから反面教師だったのだと思います。

(しかしこれが災いし、おねえちゃんばっかり構って俺に構ってはくれないと心が歪む事態を起こすんですがそこは今は置いておきますね)

 

その後バブル崩壊。

 

父の自営の経営も上手くいかなくなり、母は看護師として復帰する事になりました。

この頃からまた夫婦喧嘩が絶えなくなりましたね。

塾から帰って来ると両親が喧嘩してる。そんな日々が日常茶飯事でした。

 

またこれに耐えきれなくなった思春期の弟は感情が爆発。

部活で黒帯を習得した弟による家庭内暴力が始まりました。

ぱんだも多々弟との口論の末に首を絞められ失神しそうになったこともありますし椅子やキッチンのテーブルの脚を折られたりもしました。

 

 

教育熱心な母の育成方針の過ちは、結果が全てだった点でしょうか。

100点満点を取らなければ褒めては貰えませんでした。

 

褒められないで育った子供は、低い点数じゃダメだ、と思い込むようになります。

結果、まだまだ頑張れる、まだまだ出来る子なんだ、と自身を追い込み、自分自身の実力を見誤ってしまうんです。

するとどうなるか、できると思っていた事が出来なかったショックに打ちひしがれ、立ち直れなくなり、その時の記憶をずっと引きずる状況に陥ります。

 

何かのきっかけで自分自身の実力を自覚し頑張っても無理なもんは無理だ、と思えるようになると変われるんですけどね。

 

 

母の教育方針、承認欲求に反発したのは、中学校の受験の時。

毎晩母から愚痴を聞いていた時に、ぱんだを受験させたいのは世間や幼馴染の家を見返してやりたい気持ちからなんだ、ぱんだを想ってやっているんじゃないんだと知って、じゃぁ受験に全て失敗してやろう、母の思惑通りにはさせない。

 

表向きは塾へ行き、学校の勉強でもそこそこの点数は取りますが、受験勉強はほぼせず、結果的に受験は全て不合格、行動で示すことができました。

 

この時の母とのやり取りは凄く印象に残っているんですが、

 

「あなたのためを思ってやっていたのに、あなたは私の想いを全て拒絶する。あなたが何を考えて行動しているのか理解できない。あなたが弟のことを好きかどうかも、お父さんやお母さんをどう思っているのかも、あなた自身の事がまったくわからない。怖いのよ!!あなたが!!感情を表に出さずに淡々と行動しているあなたが!!なんなの?

あなたは!!私に!!どう思って接していたのよ!!」

 

号泣し嗚咽を漏らしながら、ぱんだの肩をバシバシ叩きながら吐いていた母セリフです。父はそれを見ているのに見ていないフリをし、何もフォローはしていませんでした。

 

本当なら、上辺だけの感情でヒトの顔色を見て接している仮面家族ではなく、時に感情をぶつけたり喧嘩したりしながら、お互いの交流を持つ機会を持っていたら……きっとこうにはならなかったんじゃないかな、と今にして思えば感じます。

 

母と子のはずが、個々の戦いになっていましたからね。同じ家に住みながら。

嫌われるかもしれない、と臆病にならずに、喧嘩することで生まれる生まれる双方の考え方が判ることもありますからね。

もちろん、仲直りがきちんと出来ていれば、の前提ではありますが。

 

そのことがきっかけとなり、母の教育熱心力は無気力となり、ぱんだに対しては無関心と真逆の行動になります。

燃え尽き症候群と言われる状態だったのかな、と。

 

中学は市内の学校に通い始めるも、学級全体からイジメを受け、学校内ではバイキン扱い、廊下を歩けば生徒は壁を伝って歩き、上履きの中はゴミで溢れ、お昼ご飯は一人で食べる生活が1年間ずっと続きました。

 

家庭が家庭だったので自分自身の評価が凄く低かったので、大勢の前で自己紹介をするという行為が何の為の行為なのか判らなかったんですよ。

目立ちたくない、その思い一新で、担任の先生にどうやったら目立たなく生活できるのか、真剣に相談しに行ったぐらいですから。

 

今にして思えば、外見も地味でどんより暗い、自己紹介も声が小さくて何を言っているのか一切聞き取れない、同調を第一に考える思春期にとってぱんだはものすごーーく不気味に映ったんでしょう。

ホラーの呪いの人形に好奇心で群がる子供のような。

 

イジメは私生活でも起き、どうしても市内なのでクラスメイトに遭遇する率が高いんですね。そのため、すれ違い様に耳元でタヒね、と言われてみたり母の付き添いで買い物へ行くとスーパー内で大声で集団で、罵声を浴びせて来たりと、不良グループに目を付けられたかのごとく心が休まる場所がありませんでした。

 

家は家で、母からの縛りは解放されましたが、逆に何を話しても無関心になり反応がなくなったのでこれはこれでしんどい。

学校で起きている出来事は、絶対に家に持ち込んではならぬ。

そう決意し、何事も無かったかのように帰宅していましたねぇ。

 

高校はいじめから逃げたい気持ちがあり、ちょっと男性恐怖症に陥っていたため女子高に通い始めます。が、根本の問題が解決されていないまま行ったため、高校でもまたイジメを受けることになりました。

 

思春期は高校も続きますからね。

でもありがたいことに高校は色々な中学校の子達が集まってきたため、同調より個性あふれた人達が多かったために、同じような友人に恵まれ楽しい思い出も出来ました。

味方5:敵5の割合でしたけども(笑)

 

ここでのイジメの原因は、やはりぱんだの存在でした。

 

幼少期からの影響のせいなのか、大人びたオーラを放ち子供らしさが無いんですよ。

そのせいで高校生の中で浮いているんです。

浮いている状態が、周囲から興味を持って欲しい目立ちたいと思っている子には「地味でブスで化粧っけも無い女が目立っている」と捉えられて、顔を合わすたびにブスを連呼され続けました。

 

仲良くして構ってくれていた友人達が生徒会長だったり学級委員長だったりしていたのも悪かったのかもしれません。内情を知らないイジメている子達にとっては媚を売ってると思い込んでいたらそれまでですから。

 

この女子高で出会った友人の一人が、のちのサブブログのプロフィールで登場する一人です。

 

楽しい高校時代は塾に通わず遊びまくっていました。

が、結果赤点を多く取り、保護者会で母の教育魂に小さな火が灯り、教育ママ復活!

 

家庭教師を週4、塾を週2で通う事になりました。

幼少の頃に説明しましたが、勉強会に通ったりしていましたよね?

高校もそうですが、学校が終わった後に家庭教師→その後塾、というパターンもあるため、帰宅してから夕飯なのですが、キッチンの灯りを頼りに薄暗い部屋でテレビをつけて独りでご飯を食べる日々が多かったです。

 

この時のご飯は本当に美味しくなくてですね。

美味しいか不味いかの判断ではなく、食べられるか食べられないかの判断基準になっていました。

 

「食事」は生きていくために、空腹を満たすもの。という認識になっていたのです。

 

今でこそ、ご飯は一人で食べても美味しい不味いの感覚はありますが、25歳ぐらいまでこの感覚はずっとありました。

コンビニのお弁当を見ても美味しそうに感じられず食べられないのも、この時の事が原因でまだ癒えていないんだと思います。

 

食事をしながら、家族でこれ美味しいねー!これはもうちょっとこうだったね~!

美味しい?もうちょっと味付けこうしたら良かったね~など、家族でする会話の重要性が食事を美味しくさせる調味料になっているんだと、今となってみては思います。

なにせ4歳の頃から学習塾に通い、塾の日は一人でご飯を食べていましたからね。

 

当時のぱんだは交際していた男性と食事に行くたびに、相手が「どう?美味しい?」と聞いてくるんですけど、それのぱんだの返事が「食べられない訳じゃない。食べられるよ」と当たり前のように返してたレベルです。

 

さてさてそれから月日が経ち、ぱんだは20歳になり社会人になって働き出しお金も貰えるようになりました。

色々な事に興味を持ち始め、視野が一気に広がりました。ネットも開通です。

 

となると、何が起きるでしょう?

 

遅い性への目覚め爆誕です。

 

ここの経験はさくっと書きますが、一つ言っておきたい事があります。

「自己評価が低いままの状態でマッチングアプリは絶対にやっちゃダメ」です。

 

自分の評価が引いと、誰かから求められる事が凄く嬉しいんですね。

何か一つ拒否されると、自分の存在全否定された気持ちに陥るので、自分を持ちあげてくれる存在、褒めてくれる存在に、コロっと信用してしまう傾向が強いです。

これがマッチングアプリを使うと相手の下心が読めないんです。

なんなら、相手が体だけの目的であってもそこから始まる恋愛もあるよね?と思い込んでしまい突っ走るし、身体だけが目的であっても、自分の体を求めてくれてる嬉しさが理性より上位にきちゃう。

 

 

無性に人肌恋しい、誰かの優しさに頼りたい時(秋冬、気温が寒い時期が多い)に、マッチングアプリに手を出し簡単に相手を探せる気持ちに依存すると、優しく声をかけてくれた人に頼り求められるままに体を売り、冷静になった際に激しく後悔する無限ループに陥りますので、絶対に手を出さないように。

 

ネットから友人ができ、交流を持ち、つい心を許してしまったことでレイプされたこともあります。相手は、妊婦嫁を田舎に残し単身赴任中の30代後半男性。

自己評価が低いことが災いし泣き寝入りをして相手は今も幸せな生活を送っています。

 

利用するあなたには、避妊をせずに行為に及ぼうとする人や強姦、脅迫に発展する場合もありますので十分に気を付けて下さいね。会うならば、お昼に大勢の人がいる場所で明るいうちに帰る、一択です(カフェランチとかショッピング巡りとかね)

 

そんなこんなでマッチングアプリで出会った男性&ワンナイトは二桁、真剣交際に発展した数は数人。20代の黒歴史の一つです。

 

まぁその後も父が自殺未遂を計って家族に殺人行為を委ねて発狂してみたり、父が救急車で運ばれてみたり、弟が夜中に家を取り出して朝帰りをしたり色々起きましたが、端折ります。

 

 

全てを振り返り思う事は、ぱんだの家庭のそれは「毒親」と呼ばれるものであったということ。機能不全家族といいます。

 

一番最初、冒頭で両親の背景を説明していますが、それは今だからこそ振り返ってみて思えることであり、当時からずっと両親を憎んできている人にとっては、両親を考えることさえ出来ていないと思います。

向き合える日が来るといいですが、両親のしてきた事をだからどうした?私が受けてきた気持ちを置き去りにしたらいい訳か!?と言ったら、そういう訳では決してありません。

 

ただ、これは両親の背景、そしてぱんだにしてきた事、そしてぱんだ自身にも言えることですが、愛情の接し方、物の伝え方が凄く不器用な人達だったんだな。

こうしなきゃダメだ、こうでなければならない、こうあるべきだ、という思想に囚われすぎて自分の能力と比較しもがき苦しんだ過程が、家族という中で個々に起きた出来事だったんだなーと。

 

一つの事柄だけが全てを反映するものではありません。

個人差があるように、どのように接していけばいいのかも、育ってきた環境、向けられた言葉、思想、価値観によって変化します。

手探りで始めたって構わないと思います。

失敗したっていいと思います。何が失敗したのか反芻できたら、次やらないようにしたらいいだけです。

 

人生100年、まだ半分にも満たしてないですからね。学んで失敗して補正して行動していけばいいんじゃないかな、と思います。

 

両親を客観的に見る事で接し方も変化し、悪い言い方をするならうまく操縦することが出来るようになりました。良い言い方なら、両親と和解、でしょうか。

ぱんだ自身は毒親とは思いません。私立の高校の入学費も出してくれましたし、生活費を一切いれない父に頼らず女一人で成人するまで衣食住を養ってくれましたし、守ってくれていたので感謝しています。

まぁいまだに母や家族を思うとすぐにその当時に戻りますし、涙が溢れてきちゃいますが、これはもう言葉で表現できないです。

 

 

さて、長くなったので人生体験談はこのぐらいで。

お次に参ります!

 

無二ぱんだの性格 

無二ぱんだは、小心者で言葉での傷つきを恐れるあまり、安心するまで徹底して観察していました。人間観察が趣味といっていたほど。
おかげで無二ぱんだを知る友人達からは、人の分析力の精度は99%と言われていました。

 

「残りの1%は何かって?」


私自身は認めたくないのですけど、友人達曰く天然らしいのです。
ですので、どこか抜けているらしいです(抜けているってどこなの~)
責任感は強い反面、大雑把な面もあり、実行に移すまで腰が凄く重いです、熊猫だけに。

先が不安で動いていいか分らないため、情報リサーチを凄く丹念にします。

 

動き始めると、最後まで期待に応えようと頑張ってしまう傾向が強いです。
頑張り過ぎて頼れる人に迷惑をかけてしまうかもしれない。

 

若い頃はそう考えていましたが、無理して頑張って心を壊してしまう方が相手に迷惑をかけてしまうと気づき、体が発する危険信号に目を向けるようにしています。

まぁ、それでも時々死んだ魚の目になっていますけどね(;´Д`) 

 

 外で働くことの怖さ

正社員を辞めパートで働くようにし、職場の人間関係のストレスや実家でのストレスへの発散方法が上手く見つけられていない頃から、ある兆候が出るようになりました。

 

それは仕事開始初日、必ず失神すること。

前後の記憶も消えます。

 

当日、それも1時間だけとかでそれ以降はその兆候は一切出ないのです。

それでも初日にまた倒れたら…その不安や恐怖から一度就いた仕事はなるべく辞めないように継続出来るようにしよう、そう決意して頑張っていました。
 

その後趣味であるゲームで相方と出会い色々と話し合いをした結果
相方の勤務先に近いところへ新たに引っ越しをし、職場は遠くなってしまうために退職。今は実家を離れて相方と新居で暮らしています。

 

ゲームが趣味なんですがこのサイトには出てきていません。


また料理は一緒に住むようになってからするようになったので料理歴4年です。
時々アレンジ料理を作り見た目が凄いことになって相方に怒られています(泣)

 

大雑把が災いしてトイレ用品や靴下、下着を相方のPC画面に干しているのを発見され
相方が激おこになることも多々…。(相方は潔癖症)

無二ぱんだは洗剤入れて洗うのだから別に気にしないタイプ。

 

料理に小さーい虫や髪の毛が入っていても、取って食べたらいいじゃない、と気にしないです。

 

現在、ぱんだが挑戦しているブログ以外はこちら!

★楽天内のSNSのようなもの>>>楽天ROOM

放置気味になっています。

★天然石を使ったブレスレットのお店>>>無二ぱんだの御霊御守

)エンジェルブレス(minne店)、半分休止半分動いてる感じ。

★商品の説明文やその他を載せている:インスタ

★通信講座で勉強中

小さい文字が読みにくくなってきましたが日々楽しんでいます♪

 

ヲタクな一面もちょいと。

 

パソコンや趣味のコミック、ゲーム遍歴

初めて購入したゲーム本体及びソフトはファミリーコンピューター(1990年)/妖怪道中記

その後、中古でゲームギア、メガドライブ、PCエンジン、DUO-RXを購入。その後、SFC、ゲームボーイ、64、プレステ、セガサターンも購入。

 

初めて購入したPCはNECのミニタワー型(1999年)当時26万円ほど。 

検索サイトはGoogle。

チャット使用歴、ICQ⇒Messenger(MSN)⇒Skype(Microsoft)⇒Discord(Discord Inc)

 

メール利用歴、パソコンを購入した時に契約したプロバイダso-netよりポストペットのソフトを購入DLして使用⇒MSNのホトメ&Googleのgmail。

 

ブログ歴は、mixi(2002年)⇒gooブログ(2004年)⇒Twitter(2011年)⇒はてなブログ(2019年)

その間に、ゲーム内ギルトの自作HPでココログを使用。ホームページビルダーを使い作りました。

 

知っているインターネット老人会の方がいたら、フォローミー(屮゚Д゚)屮 カモーン

 

 

 

こんな無二ぱんだですが(どんなだ)好感や共感を持っていただけたら嬉しいです。
最後までお読みいただきありがとうございます。

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